母が、高校の同級生たちと作っているミニコミは、年に2〜3回の頻度で編集されています。そして、次の号に、母は、インターネットに驚いたことを書くことにしたようです。インターネットの何に驚いたかと言うと、母の従兄弟である、海軍中佐のことが書かれている記事をみつけたから。その記事によると、母が小学生の時に聞いていた、その人の「最期」の様子が、半分は記憶通り、半分は違っていたようです。真偽はともかくとして、ともかくも、そんな、ずっと昔のことがインターネットで調べられることに母は驚きました。
なんでこの話から始めたのだろう。
私は、10年ちょっとパフォーマンスをやってきて、学ぼうと思って、ヨーロッパに頻繁にでかけてきました。そして、学んで、自分が体得した、ある種の「運び」方が、最近は古めかしくていやになってきました。このブログの背景になっている写真のパフォーマンスの時が、最後だったように思います。なんか、できそこないのエンゲキみたい。
結局、多くのパフォーマンスアートってそんな感じになっていると思う。コンセプトはまあまああるようなないようなで、動きがきれい、とか、段取りがきちんとしているとか。「芸」になっちゃってる。
そう言うレベルの近代的「芸」を学ぶ為に、パフォーマンスアートをやってきたわけではない。なにか、硬直して行くものを、拒否し続けるのが、パフォーマンスアートの芸だと思う。「うまいね」とか、そういうのを、量産してもしょうがないと思っている。
前回のシャトマルでの内田さんの組は、インストラクションはそのもの古風なものだったけど、彼らがわくわくしているのが伝わってくる鮮度のあるパフォーマンスで、私はとても楽しみました。実は、全部の中で一番、すっきりしていて、パフォーマンスらしかった。ところが、それをこき下ろす人は、少なくなかった。言う人は「暴走してる」「だらだらしてた」。わたしは、それを「大きなメリハリ」があったと言い換える。緩んだり、走ったり。
そして、人によっては、それは表現としてだめだと言う。やっぱり、いつも。こないだのボイスなら、音楽と捉える人には、聞くにたえない、だけの話になってしまう。場所とか状況のへんてこさがマイナス要因になるらしい。私は、フジエさんの音楽でも体操でも踊りでもなく、大きな大きなため息を時間かけて、様々な方法で吹き出しているいるようなボイスが、どこから見てもパフォーマンスアートに見えて、面白いとずっと思ってました。でも、ボイスは音楽家がたくさんいて、そちらがメジャーだから、厳しい道なんだね。でも、「音楽」になってしまっているボイスは、私はあまり面白くないんだ。結局、シューベルトのアリアと同じだから。ヨーロッパのパフォーマンスフェスには、時々、ボイスパフォーマーが参加していますが、どの人も、なにか、まとまっちゃって、小さく見える。
それにしても、銭湯で、「脱衣所」にいると「全く聞こえなかった」という人がいた。「女湯」の中に入ってきた人が何人かはいました。中に入るように、手招きしたので。椅子もないから、めんどくさくてまた出って行ったみたいです。それはいいとして、聞こえなかったこと、私が、1週間も後になって、誰かに聞くまで、誰一人として言わなかったということに今、驚く。終わって「残念!聞こえなかったよ」と言う人が誰もなく、ただただ、世間話で時間をつぶしていました。
*この投稿のあと、いただいたコメントやメールで、脱衣所で聞こえないということはなかったと、わかりました。そして、移動して聞く人も少なからずいた、ということがわかりました。確かに、脱衣所と中では音が違うことはわかってましたが、それはそれとして、聞けるのではないかと思っていましたから、良かったです。声を堪能するというコンセプトではないので。現代美術のインスタレーションを見る人は、あちこちから見ます。部分を見たり、全体を見たり。そういうことが、パフォーマンスアートには活かされてほしいので、落語を聞くようにじっとしているものでは、もうない。それを求める方達にお届けしたいです。どんなインスタレーションでも、わけわかんなかったという人は必ず多数いるので、それでひるむことはないと思います。ライブは、みんなを喜ばなければならないとは限りません。この辺をこらえないとショーイベントになっていってしまう。
かつてわたしは世間話ができなくて、OL生活がうまく送れなかったことを思い出しています。韓国語で「うまく」とは「音楽」のことです。