28.6.14

Photo and Essay の本をつくってる



ところで..... この1〜2年くらい私は、鬱になってた。知ってました? 若いころ、「わたし落ち込んでるの」なんて言っていたことなんて、お笑い、なぐらい、鬱って言うのがあるんだと言うことがわかった。人は、それを更年期障害と言うかもしれない。
そんなのどっちでもいい。
今は、落ち着いている。どうやら、単に、日本の社会が狭くなってきただけの話だと気がついた。特に震災以後。つまり、私の問題だけではない。
私より、強い心を持っている人や、たまたま動きやすいところにいる人たちは、なんとか、なっているだけで、誰にとっても、生きにくい社会になっているのだと思う。
私は、自分が、からっぽのペットボトルのように無価値に感じることがしばしばだった。


ところで、今は、すがすがしい感じで、アートブックの準備をしている。
タイトルは「ホームランド」。写真とエッセイで構成される。小さな冊子だ。

私は、幸運にも、5月に参加した、スエーデンでのパフォーマンスフェスの参加後、そのキュレーターのスーエンさん(アーティストでもある)が、彼女のスタジオのゲストハウスに、しばらく滞在して良いよ、と言ってくれた。それを、私は勝手に、はやり言葉の「アーティストインレジデンス」と呼び、10日間だけだが、滞在した。

森の中。隣の家に行くには、車で5分かかる。


でも、プランはなし。そこに、滞在してみただけだ。なんにもしない、と決めて、自分が何をしたくなるか、試してみた。

初日に、スーエンに森を案内してもらったが、カメラなどを持って行く気にならなかった。写真を撮ることは、shootという。つまり、武器なのだ。自分が、それをする必要も感じないまま、習慣的にshootはできない。

このごろの私は、町を歩いていて、おもしろげなものがあると、iPhoneで、すぐ撮っていた。iPhoneでは、Shootの感じはしない。でも、実はそれは同じなんではないかな。

日中は、森などを歩いた。結果、5日経ったころから、ようやく、写真を撮り始めた。いや、その前に、ノートに考えていたことを書いていた。たまたま、PCに入っていた、放送大学の哲学講座を毎夜、聞いた。食料品店に滅多に行けなかったので、ベジタリアン食に徹した。人付き合いとしては、余計なことを話さない、実践派の彼女と、日中、庭仕事をしたくらい。
インターネットもほとんどしてない。
あれほど、他者との関わりを求めて、イベントを催したり、SNSに頻繁に投稿していたのがウソみたいだ。
気持ちがよかった。日にちが限られているからかもしれない。しかし、それでも、その間に、自分を見つめられる。しかも、自分を責めることなく。

さて、
その撮った複数の写真を見て、「Homeland」という言葉が浮かんだ。特に、鉄道の写真。
緑が豊かだが、同時に、雲はたれ込めている。決して、のんきではない。写真の画面とは、「鏡」のようなものだ。shootされているのは、私自身。watching at me.




ホームランド。微妙な言葉だ。やばい、ニュアンスも感じる。なにせ、たんに、翻訳すると「故郷」になってしまう。そこは私の「故郷」ではないし、だいたい、私には「故郷」がない。
こういうとき、翻訳は、便宜上だけ。言葉の深いニュアンスは消えている。
しかも、この、カタカナはあんまりきれいではない。

「ホーム」とは、「横たわる場所」という意味があるらしい。または、「本来の場所」。「ランド」は、まずは、「陸」の意味だが、スエーデン語では、ただの陸ではなくて、「窪地」という意味もあるらしい。「ホームタウン」という言葉のように、人によって作られた場所ではなく、自然の場所、であることを意識したい。動物としての自分を思い出してみる。無理なんだけどね。想像する。
ふと、そこに現れた、みずたまりのような、場所。目をそらしたら、もう消えているかもしれない。しかし、それは、確かに、出現する。

これは、私からの提案。

世界中どこでも、私たちがその気になれば、その瞬間、その場所が、私の(あなたの)「ホームランド」になる。そのような、感覚を持つこと。「くつろぐ」ところかもしれないが、「自分が何ものか、考えるための」あるいは「目を開く」場所として、「ホームランド」という言葉。それは「生きている根拠」でもあるし、「それでいけ」という声でもいい。
場所の占有、場所の主張権、それによる対立、の世界への抵抗、の意味はあると思う。


その名前の場所。
声を出して言わなくてもいい。鼻の奥だけで、唱える。「フーフフンフ。」
音は、心の中で、出せばよい。


「還るところ」ではない。「裂け目」としてのホーム。
どんな瞬間でも、自分で、アクセスできる「裂け目」を、持つこと。それがあれば、怖くない。

そんなことを感じる機会になる冊子。
その「冊子」を持っていれば、その「裂け目」を開けるかもしれないと思える、魔法の(?)冊子を作りたいと思い、
今、
作ってる。
あくまで、表現されたものであり、実際の「ランド」ではないけれど、その気になれば、アートも、そうなれる。の可能性。




ゆっくり考える機会を与えてくれた、スタジオの持ち主、スーエンさん、本のデザインを引き受けてくれたグラフィックデザイナーの佐野佳子さん、翻訳してくれる予定の人、そして、その他、サポーターの方たち。写真を見て、「いいわね!」とびっくりしてくれた母へ。そして、それをプレゼントしたい人たちの顔が浮かぶ。



その気になれば、私にだって、そういう方たちが回りにいるんだという、幸運、に感謝しつつ。


もうすぐ!!